メモ:山口瑞鳳著 『詳説 インド仏教哲学史』岩波書店 2010年

・自分用のメモ。

20120129_yama.jpg

・この著者はチベット仏教の権威で著作も多い。東京大学名誉教授。勲三等瑞宝章。既に80歳を超えている。このような地位も名誉も備えた高齢の仏教学者の著者が、まるで血気盛んな新鋭学者のように仏教学界の常識に挑戦状を叩きつけている様子が興味深いので、ここに記録する。

・既に何冊もの著作を出版し、出版の受賞歴すらあるこの著者が

「仏教に関する著作を初めて出版出来た」(あとがき、より)

とのべ、

「筆者は寂護によるこの主張こそが仏教哲学の根源的思想であることを教えられ、齢八十に到ろうとする時漸くこの認識に辿りついた。今この趣旨を語らぬまま世を去るのは忍びない思いに駆られ、自らの吟味によって得たものを隠さずにまとめ、全てを明らかにして、学界の常識に拘束されず、この思想的伝統を呈示しなければならないと思い立った。」(はじめに、より)

とまで述べている。だから本書はまさに遺言。

・仏教学者でさえ釈尊の本意を理解していないと嘆き、部派仏教を批判し、唯識を批判し、ダルマキールティを痛罵し、龍樹を誤解していると言い、本覚思想を批判し、中国禅思想を批判し、密教(空海を除く)を批判している。部派仏教の倶舎論についても「小乗非仏説」という皮肉なネーミングで批判している。

・著者は龍樹の『中論』という名称を俗称だとし、『般若論』と呼んでいる。

・無限や無限小の時間・空間に関する、数学や物理への著者の批判はかなり的外れだ。極限もプランク時間も無視しているようだから。とはいえ、実体としての無限は存在しないという直感主義的な主張はなしうるから、極限を無限操作として捉えた時、「現実世界での」成立根拠が微妙になる…のか?

・後半では西洋哲学のベルクソン、カント、大森荘蔵の諸説を批判している。

・その著者が提唱するのが、仏陀以来正統仏教の教えであるという、
---
知覚の原因としての外界と、知覚された結果の表象と、表象から抽象されて記憶されている観念とを区別する「三つの時間」
---
 の認識。

・一読後の感想は、こんな感じ。著者の3つの時間の意味はイヤになるほど、手を変え品を変え説明がなされているので、頭では分かった。だが、その重みというか、手応え、衝撃を感じない。かつて本覚思想批判や空思想批判、念仏呪術論、中国禅思想批判の書を読んだ時に受けた衝撃が、本書からは受けなかった。

・著者の主張の本質的で微妙な部分を私が掴みそこなっているから衝撃を受けなかったのだろうか? 著者のいう「三つの時間」は、悟った直後の釈尊が理解されないだろうとして説法を諦めようとしたものと同等の意味を持つものだから、難解で微妙なのだという。これは凄まじいほどの自信だ。

・著者は「三つの時間」が「哲学的」に微妙、難解だから理解しがたいと思っているようだが、そうは思えない。それを理解するには哲学のセンスではなく、体験的なツボがたぶん必要なのだ。

・唯識や部派仏教の教えに凝り固まっている人にはツボを押すことで劇的な効果があるのかも知れない。だが特に体に不調を感じない人は、ツボを押しても何の効果もない。

・部派仏教の説に凝り固まっていた大昔の人には龍樹の『中論』も衝撃だっただろうが、現代人には『中論』の主張が空っぽな戯論、言葉のトリックでしかないようなものだ。(言語哲学なるものに幻惑された現代の哲学者や知識人にはまだ、当分の間はウケるかもしれないが)

(2012.1.29)
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

横着者 (ご連絡はコメント欄にて)

Author:横着者 (ご連絡はコメント欄にて)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR