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Elizabeth Klarer の元・協力者が、彼女の捏造を証言 (途中:その1)

背景知識


  Elizabeth Klarer の主張:異星人と性交渉し、子どもが生まれた(全体+追加) (2020-06-04)

前置


・元・協力者とは Philipp Human (下)の事。

20200612_HumanPhilipp.jpg


・Philipp Human は、Elizabeth Klarer の親友だったが最後には仲違いしている。その人物の告白なので、中傷である可能性もあるが、記録しておく。

・なお、この件では機械翻訳が頼りにならないことが露呈した。

注目箇所


・文脈から she は Elizabeth Klarer の事。(彼女の元・協力者だった)Philipp Human が UFO の捏造写真作成に手助けし、彼女の本のゴースト・ライターだったと手紙の中で述べていた。

原文



it was a standing joke the way she was helped to photograph an ordinary motor car hubcap.So much for her photographs… I typed the original MSS.


デタラメ訳



彼女が自動車のハブ・キャップを(UFO だと偽って)撮影するのを、(Philipp Human が)手助けしたやり方は、ありふれた お遊び/イタズラ だった。彼女の撮影した写真については、これくらいにしておく。私が(彼女の本の)元となる原稿をタイプした。


・蛇足:上の文章の直前に "You will be horrified to hear that" とあるので、「"she was helped to photograph an ordinary motor car hubcap" という話」が事実ではなくジョークだった…という強引な解釈は無理。

・蛇足:英文の受動態をそのまま日本語にすると不自然なので能動態で訳した。

一部引用



Philipp Human´s admiration for Elizabeth would soon end when she criticized his views on psychic contactees and revealed that Akon was her lover: ”With regard to Mrs. Klarer, I´m afraid I shall have to disappoint you. Our correspondence came to a halt when I told her how a space man had contacted me through a trance medium. She gave me a severe telling off. No space man would stop to such methods… Ever since then Elizabeth and I have parted ways. You will be horrified to hear that I do not believe one word of her supposed to be contacts and it was a standing joke the way she was helped to photograph an ordinary motor car hubcap. So much for her photographs… I typed the original MSS. That was before she added additional material to tell of her pregnancy caused by her Venusian lover, and how he had taken her to Venus to give birth to this blue-eyed fair-haired Venusian baby who would never be allowed to visit this planet but was being reared by Akon´s sister. I pray that this book will never be published.”
(Letter from Philipp Human to Edith Nicolaisen, June 22, 1966).

ref: Hakan Blomqvist´s blog: The Edith Nicolaisen - Elizabeth Klarer correspondence - https://ufoarchives.blogspot.com/2019/03/the-edith-nicolaisen-elizabeth-klarer.html



参考


・ついでに機械翻訳を試してみたが、残念ながら(or 当然ながら?)機械翻訳は、この件では頼りにならないことが露呈した。

・DeepL の出力結果は、「立ちっぱなしのジョーク」、「彼女の写真はここまで」、「オリジナルのMSS」…と、どれもこれも意味不明。

Deep L による機械翻訳



フィリップ・ヒューマンのエリザベスへの賞賛は、彼女がサイキックコンタクティに対する彼の見解を批判したときに、すぐに終わりを迎えることになる。"クレラー夫人に関しては、残念ながらあなたを失望させなければなりません。私たちの文通は、宇宙人がトランス状態の霊媒師を通してコンタクトを取ってきたことを彼女に話したときに途絶えてしまいました。彼女は厳しい言葉を浴びせた 宇宙人がそんな方法を止めるはずがない それ以来エリザベスと私は別れた 聞くとぞっとするでしょうが、私は彼女がコンタクトを取ったと思われることを一言も信じておらず、彼女が普通の自動車のハブキャップを撮影するのを手伝っていたのは、立ちっぱなしのジョークだったのです。彼女の写真はここまで...私はオリジナルのMSSを入力しました。それは、彼女が金星人の恋人によって引き起こされた彼女の妊娠と、彼がどのようにして彼女を金星に連れて行き、この惑星を訪れることが許されないであろう青い目をした白髪の金星人の赤ん坊を出産させたのかを語る追加の資料を追加する前のことでした。この本が出版されないことを祈ります。
1966年6月22日、フィリピン・ヒューマンからエディット・ニコライセンへの手紙)。



・コメント欄で推奨を頂いた「みらい翻訳」もこの件では、あまり頼りにはならない。"it was a standing joke" という最も重要な箇所が完全に無視されている。「私は彼女の一言が接触であると信じていない」という訳も誤訳の部類。

みらい翻訳 による機械翻訳



彼女が普通の自動車のハブキャップの写真を撮るのを助けられたのと同じように、私は彼女の一言が接触であると信じていないと聞いて、あなたは驚くだろう。彼女の写真はもうたくさん...オリジナルのMSSをタイプしました。

ref: お試し翻訳 | みらい翻訳 | イノベーティブな機械翻訳 - https://miraitranslate.com/trial/


・念の為に Google 翻訳も試したが、肩をすくめるレベルだった。


ソース記事の機械翻訳(DeepL)




エディット・ニコライセン-エリザベス・クララー通信
AFUの膨大なパルテノン書簡ファイルには、1950年代から60年代の有名な一般のコンタクティからの手紙が保存されている。パルテノン出版社の創設者であるエディス・ニコライセンは、できるだけ多くのコンタクティの本をスウェーデン語に翻訳して出版したいという野心を持っていた。彼女の親しい友人の一人は、彼らが会うことはありませんでしたが、南アフリカのエリザベス・クララー(Elizabeth Klarer, 1910-1994)で、接触体験を持っていました。ニコライセン-クレラー通信ファイルは、1956年から1976年の間に書かれた23通の手紙で構成されています。エディット・ニコライセン-エリザベス・クララー通信

エリザベス・クレラーのUFO観測と接触体験は、1956年11月から12月にかけて発行されたFlying Saucer Reviewに掲載された。最初の接近遭遇は、1954年12月27日、ナタールのドラケンスバーグ山脈で、エリザベスは、地面の近くでホバリングしている空飛ぶ円盤を観察しました。彼女は舷窓の一つに一人の男性を観察しました。"今まで見た中で最もハンサムな男性だった」と。彼女が再び同じ円盤に遭遇したのは1956年7月17日のことでしたが、今度は着陸し、金星から来たアコンという男性が円盤の横に立っていました。彼は彼女を招き入れ、彼女は小旅行をさせられ、水と赤いリンゴとバナナに似た他の果物を提供されました。背の高い金星人は完璧な英語を話し、私たちの惑星に少しの間住んでいたと主張していた。彼は公正な金色の肌をしていたが、クルーのもう一人のメンバーは背が低く、オリーブ色の肌をしたがっしりとした体型だった。いくつかの会話の後、エリザベスは同じ場所に戻されました。1956年7月17日、彼女は空飛ぶ円盤の7枚の写真を撮ることに成功した。エディス・ニコライセンはフライング・ソーサー・レビューの記事を読み、すぐにエリザベスに手紙を書き、1957年2月7日に返信を受け取った。

エリザベスへの2通目の手紙の中で、エディット・ニコライセンは自分の人生と経験を詳細に要約しています。彼女は通常、彼女の人生の個人的な詳細を明らかにすることに非常に消極的であったが、特に彼女のスウェーデンの通信員には、世界中の連絡先の友人に手紙を書くときには、ややオープンであった。これは地球外生命体との 会合の可能性に言及した 唯一の手紙です "あなたは知っている、ジョージA.は、しばしば他の惑星からの "兄弟 "が私たちの間を歩いていると書いている、と私は信じています、私はストックホルムで1つとコペンハーゲンで1つに会ったことがあると、ジョージは一度私に彼らは非常に特徴的な特徴を持っていると言った - そして私は、私はこの特定の特徴を認識していると信じています。コペンハーゲンでの後者は40年だったかもしれませんが、400年でもあった! 次回は、このタイプの紳士に挨拶する勇気を得ようと思います。"
エディス・ニコライセンからエリザベス・クレラーへの手紙、1957年2月23日)。


エディスとエリザベスは友好的な文通を続け、1959年にパルテノンは小さな冊子『I rymdskepp over Drakensberg』を出版しました。これは、基本的にはフライング・ソーサー・レビューの記事を基に、エリザベスからの情報を一部更新したものでした。第二版は1967年に出版された。

1961年8月29日の手紙の中で、エディスはエリザベスに、もう一人の南アフリカの接触者の女性について尋ねたが、その女性は小さな本『Transvaal Episode - A UFO Lands in Africa』を出版していた。著者のアンカーは、アン・グレブラーのペンネームであった。彼女の返事の中で、エリザベスは、この二人の女性コンタクティの間の奇妙な復讐について話した。

エリザベスは南アフリカでは非常によく知られた接触者となり、軍や諜報機関のメンバーが彼女の経験に興味を持っていたと主張した。しかし、彼女はまた、彼女の友人や特派員の多くの動機をかなり疑っていました。"ほら、ニック、私はロンドンの『フライング・ソーサー・レビュー』の裏で働いていた男たちをいつも警戒していたのよ(これは内密に)、私の原稿は彼らの依頼でネヴィル・スピアマンに送られ、ボタ大佐は彼らの何人かを知っていて、彼らはイギリスの諜報機関(MI5)だと教えてくれたの。" エリザベス・クレラーからエディット・ニコライセンへの手紙、1964年5月12日)。1964年の『フライング・ソーサー・レビュー』の編集者はワヴェニー・ガーヴァン。彼は1964年10月22日に死去し、チャールズ・ボーウェンが編集者に代わった。

言及された原稿は、1977年にドイツのDUISTという組織から初めて出版された『Jenseits der Lichtmauer』である。最初の英語版は、1980年に南アフリカのケープタウンにあるハワード・ティミンズ社から出版された『光の壁を越えて』です。エリザベスは1960年頃からこの原稿に取り組み、非常に物議を醸すことになるであろう経験を追加・更新していました。彼女はアコンと恋に落ち、プロキシマ・ケンタウリ座を周回する惑星の一つであるメトン星のアコンの新しい家に連れて行かれた時に、彼らの息子であるアーリングを出産した。私は西ドイツのカール・ヴェイトからコピーを受け取りました。私の原稿は彼らにショックを与えたと思いますが、このようなことについては真実を隠すことはできません。
エリザベス・クララーからエディット・ニコライセンへの手紙、1966年2月7日)。

エディスはまた、この新しい啓示について聞くために窒息していたことは明らかである。彼女のセックス観は、ルドルフ・シュタイナーやマックス・ハインデルの教えの影響を受けた、非常に厳格で禁欲的なものでした。南アフリカの友人であるウルフ学者のフィリピン・ヒューマンに宛てた手紙の中で、彼女はこの原稿に対する自分の見解を明確にしています:「1966年6月22日のあなたからの手紙と、クレラー夫人についての情報をありがとうございます。私はずっと前に、ドイツの友人ヴェイツから彼女の本の内容を聞いたのですが、私は彼女の本を転載したいと思っています。彼女の連絡先についての小冊子を 再掲載したいと思います 私は彼女が何らかの接触をしたと信じています。"
(1966年7月4日、エディット・ニコライセンからフィリップ・ヒューマンへの手紙)。

エディスは1958年から1967年にかけてフィリピン・ヒューマンと文通していた。彼は1950年代にエリザベス・クララーの親友であり、尊敬していました。"クラー夫人と出会い、彼女を知ることは、私の人生の中で最大の出来事でした。彼女の宇宙に関する知識は驚異的で、彼女は私に親切にしてくれました。彼女の友人が最後の訪問の際に金星から彼女に持ってきた小さな石を手にして感激しました...彼は実際に彼女の家を訪れたのです。"
(フィリップ・ヒューマンからエディット・ニコライセンへの手紙、1958年4月17日)。

フィリップ・ヒューマンのエリザベスへの賞賛は、彼女がサイキックコンタクティに対する彼の見解を批判したときに、すぐに終わりを迎えることになる。"クレラー夫人に関しては、残念ながらあなたを失望させなければなりません。私たちの文通は、宇宙人がトランス状態の霊媒師を通してコンタクトを取ってきたことを彼女に話したときに途絶えてしまいました。彼女は厳しい言葉を浴びせた 宇宙人がそんな方法を止めるはずがない それ以来エリザベスと私は別れた 聞くとぞっとするでしょうが、私は彼女がコンタクトを取ったと思われることを一言も信じておらず、彼女が普通の自動車のハブキャップを撮影するのを手伝っていたのは、立ちっぱなしのジョークでした。彼女の写真はここまで...私はオリジナルのMSSを入力しました。それは、彼女が金星人の恋人によって引き起こされた彼女の妊娠と、彼がどのようにして彼女を金星に連れて行き、この惑星を訪れることが許されないであろう青い目をした白髪の金星人の赤ん坊を出産させたのかを語る追加資料を追加する前のことでしたが、それはアコンの妹によって育てられていました。この本が出版されないことを祈ります。
1966年6月22日、フィリピン・ヒューマンからエディット・ニコライセンへの手紙)。

今日のエリザベス・クレラーの主張をすべて評価しようとするのは非常に困難です。私の知る限りでは、彼女が生きていた間に行われた詳細で真剣な調査は事実上ありませんでした。クラー事件を記録しようとした数少ないユーフォロジストの一人がジンバブエのシンシア・ハインドです。エリザベスの妊娠を確認することができた親族は、今では亡くなっています。シンシアは、エリザベスがアコンからのプレゼントだと主張していた指輪を、自分で手に持っていました。検査は行われていません。エリザベスが保管していたメトンの石の地質学的分析も行われていない。そして、私の知る限りでは、空飛ぶ円盤を示す写真のネガについての研究は行われていません。

接触者が誰であろうと、接触者が本当に「宇宙人」に会ったという多かれ少なかれの独立した確認がある古典的なケースがいくつかあります。UFO学者シンシア・ハインドは、1999年1月のUFO Afrinewsで、このシナリオは、エリザベス・クララーの事件でも出てきたと報告しています。南アフリカのナタールにあるホテルのオーナーは、突然、受付に立っている見知らぬ男を見つけた。"背が高く、金髪で、とてもイケメンで、ちょっと変わっているが、特徴があり、頬骨が高くて」。彼はエリザベス・クララーを尋ねたが、その名前で予約が入っていないと言われた。その後、彼は奇妙な形で姿を消してしまう。約一週間後、エリザベス・クララーが到着し、ホテルに予約が入った。オーナーはその男について言及し、エリザベスは彼女の宇宙人アコンの胸像の写真を見せます。彼はすぐに奇妙な訪問者だと気づく。クラーにかなり懐疑的で、多くの調査を行ったシンシア・ハインドは、それでもこの結論に至った。"これら全ての要因を調べる必要がある。エリザベス・クレアやエドウィンのように、デマのように聞こえるが、明らかにそうではないケースを 脇に置くのをやめる時が来た。"

エディス・ニコライセンへの最後の手紙(1976年11月27日)の中で、エリザベス・クレアは『光の壁を越えて』について次のように書いています。"この本はあなたにとって必要なものであり、パルテノンで出版できることを願っています。" しかし、エディスは返事をすることはなく、沈黙のまま20年間の友情と文通を終えました。彼女はクラーの最初の小冊子『I rymdskepp over Drakensberg』の第二版を出版しましたが、二冊目の本については一切触れませんでした。エリザベスに何が起こったのかを理解しようとせず、彼女の失望と疑問を率直に表現する代わりに、エディスは単に連絡を絶ったのです。エディス・ニコライセンへの最後の手紙(1976年11月27日)の中で、エリザベス・クレアは『光の壁を越えて』について次のように書いています。"この本はあなたにとって必要なものであり、パルテノンで出版できることを願っています。" しかし、エディスは返事をすることはなく、沈黙のまま20年間の友情と文通を終えました。彼女はクラーの最初の小冊子『I rymdskepp over Drakensberg』の第二版を出版しましたが、二冊目の本については一切触れませんでした。エリザベスに何が起こったのかを理解しようとせず、彼女の失望と疑問を率直に表現する代わりに、エディスは単に連絡を絶ったのです。


この態度はニューエイジの接触指向のUFOの動きのジレンマを表象する: 研究者か宣教師か。エディスNicolaisenに宇宙人の精神的なメッセージは最優先事項であった。それが精神的なメッセージを支えることができれば研究は興味深かった。エディスは、研究と精神的なメッセージが常に一緒に働いていないことをハードな方法で学ぶことだった。これはおそらく、1960年代に入ってから、彼女が神秘主義とリチャード・グレイブスとユル・ヴァーナーの終末の予言をますます重視するようになった理由の一つでした。もし彼女がルドルフ・シュタイナーやマックス・ヒンデルに頼るのではなく、ヘレナ・ブラヴァツキーやアリス・ベイリー、スウェーデンの密教主義者ヘンリー・T・ローレンシーなどの中核的な密教の伝統の足跡をたどっていれば、これらの落とし穴を避け、よりバランスのとれた見方を身につけることができたかもしれない。彼女の知的訓練と学術的な資格にもかかわらず、彼女はローレンシーの作品を発見したことはないようです。イーディスNicolaisenはニューエイジの宣教師であり、彼女の人生のすべてのままであった。
Posted by Hakan Blomqvist at Saturday, March 16, 2019



ソース記事の原文



The Edith Nicolaisen - Elizabeth Klarer correspondence
In the voluminous Parthenon correspondence file at AFU is preserved letters from almost all the wellknown public contactees of the 1950s and 60s. Edith Nicolaisen, founder of the Parthenon publishing house, had the ambition to translate and publish as many contactee books in Swedish as possible. One of her close friends, although they never met, was Elizabeth Klarer (1910-1994) a South African woman with contact experiences that eventually would prove quite shocking to Edith and many of her colleagues in the UFO and New Age community. The Nicolaisen ? Klarer correspondence file consists of 23 letters, written between 1956-1976.


Elizabeth Klarer

The original UFO observations and contact experiences of Elizabeth Klarer were published in Flying Saucer Review, Nov-Dec 1956. The first close encounter occurred on December 27, 1954, in the Drakensberg Mountains of Natal, when Elizabeth observed a flying saucer hovering close to the ground. She observered a man in one of the portholes: ”The most handsome man I have ever seen”. It was not until July 17, 1956 when she again encountered the same saucer, but this time it was landed and the man, Akon from Venus, stood beside the craft. He invited her to enter and she was given a short trip and offered water, a red apple and other fruit similar to bananas. The tall Venusian spoke perfect English and claimed to have lived a short while on our planet. He had a fair golden-hued skin while another member of the crew was short, stocky with olive skin. After some conversation Elizabeth is returned to the same spot. On July 17, 1956 she succeeded in taking seven photographs of the flying saucer. Edith Nicolaisen read the Flying Saucer Review article and immediately wrote a letter Elizabeth and received a reply February 7, 1957.




In her second letter to Elizabeth, Edith Nicolaisen gave a detailed summary of her own life and experiences. She was usually very reluctant to reveal personal details of her life, especially to her Swedish correspondents, but were somewhat more open when writing to contactee friends around the world. This is the only letter I have found, so far, mentioning possible meetings with extraterrestrials: ”You know, George A., has often written that ”the Brothers” from other planets walk among us, and I do believe that I have met one at Stockholm and one at Copenhagen, George told me once that they have a very characteristic feature ? and I believe that I have recognized this particular feature. The latter at Copenhagen could have been 40 years but also 400 years! Next time I shall try to get the courage to address this type of gentlemen.”
(Letter from Edith Nicolaisen to Elizabeth Klarer, Feb. 23, 1957).





Edith and Elizabeth continued a friendly correspondence and in 1959 Parthenon published the small booklet I rymdskepp over Drakensberg. This was essentially the material from the Flying Saucer Review article, with some updated information from Elizabeth. A second edition was published in 1967.




Photo by Elizabeth Klarer, July 17, 1956


Backside of photo


In a letter August 29, 1961 Edith asked Elizabeth about another South African contactee woman, who had published a small book, Transvaal Episode ? A UFO Lands in Africa. The author, Anchor, was the pen name of Ann Grevler. In her reply Elizabeth told about the strange vendetta between these two woman contactees, a controversy followed up in the local press.








Elizabeth became a very well known contactee in South Africa and also claimed that members of the military and intelligence community was interested in her experiences. But she was also rather suspicious of the motives of many of her friends and correspondents: ”You see, Nic, I have always been wary of the men who worked behind the Flying Saucer Review in London (this in confidence) and my manuscript was posted to Neville Spearman at their request and Col. Botha told me that he knows some of them and that they are British Intelligence (MI5).” (Letter from Elizabeth Klarer to Edith Nicolaisen May 12, 1964). Editor of Flying Saucer Review in 1964 was Waveney Girvan. He died on October 22, 1964 and was replaced as editor by Charles Bowen.

The manuscript mentioned was first published by the German organisation DUIST in 1977, Jenseits der Lichtmauer. The first English version, Beyond the Light Barrier, published in 1980 by Howard Timmins, Cape Town, South Africa. Elizabeth had worked on this manuscript since around 1960, adding and updating experiences that would prove to be very controversial. She had fallen in love with Akon and she had given birth to their son, Ayling, when taken to the new home of Akon on Meton, one of the planets orbiting Proxima Centauri: ”I am at present rewriting my whole manuscript and hope to complete it as soon as possible. I received the copy back from Karl Veit in West Germany. I think my manuscript shocked them ? but I cannot hide the truth in these matters.
(Letter from Elizabeth Klarer to Edith Nicolaisen, Feb. 7, 1966).



That Edith also was chocked to hear about this new revelation is evident. Her views on sex were very strict and ascetic, influenced by the teachings of Rudolf Steiner and Max Heindel. In a letter to another of her South African friends, ufologist Philipp Human, she made her views on the manuscript very clear: ”With thanks received your letter of 22 June 1966, and for your information about Mrs. Klarer. Don´t be afraid, we shall never publish E. Klarer´s story with her Venusian lover, long ago I heard about the contents of her book from our friends Veits in Germany. But I would like to reprint her little booklet about her contacts. I do believe that she has had some sort of contact.”
(Letter from Edith Nicolaisen to Philipp Human, July 4, 1966).

Edith corresponded with Philipp Human 1958-1967. He was in the 1950s a close friend and admirer of Elizabeth Klarer: ”Meeting Mrs. Klarer and getting to know her has been the biggest event yet in my life. Her knowledge about the universe is phenomenal and she has been kind and helpful to me. I was thrilled to hold a small stone her friend brought to her from Venus during his last visit… He actually visited her home.”
(Letter from Philipp Human to Edith Nicolaisen, April 17, 1958).


Philipp Human

Philipp Human´s admiration for Elizabeth would soon end when she criticized his views on psychic contactees and revealed that Akon was her lover: ”With regard to Mrs. Klarer, I´m afraid I shall have to disappoint you. Our correspondence came to a halt when I told her how a space man had contacted me through a trance medium. She gave me a severe telling off. No space man would stop to such methods… Ever since then Elizabeth and I have parted ways. You will be horrified to hear that I do not believe one word of her supposed to be contacts and it was a standing joke the way she was helped to photograph an ordinary motor car hubcap. So much for her photographs… I typed the original MSS. That was before she added additional material to tell of her pregnancy caused by her Venusian lover, and how he had taken her to Venus to give birth to this blue-eyed fair-haired Venusian baby who would never be allowed to visit this planet but was being reared by Akon´s sister. I pray that this book will never be published.”
(Letter from Philipp Human to Edith Nicolaisen, June 22, 1966).

Trying to make an assessment of all the claims of Elizabeth Klarer today is exceedingly difficult. To my knowledge there was practically no detailed, serious investigation made during her lifetime. One of the few ufologists who tried to document the Klarer case was Cynthia Hind from Zimbabwe. She reflects on what could have been checked at an early stage in the contacts: the relatives who could have confirmed Elizabeth´s pregnancy are now dead. Cynthia personally held the ring in her hand that Elizabeth claimed was a present from Akon. No examination made. No geological analysis was made of the rock from Meton, kept by Elizabeth. And to my knowledge there has been no study of the photo negatives showing the flying saucer.


Elizabeth Klarer at the 1967 DUIST congress, Wiesbaden



There are several classic cases where there are more or less independent confirmation that the contactee really did meet "aliens" - whoever they are. Ufologist Cynthia Hind reports in her UFO Afrinews, January 1999, that this scenario also came up in the Elizabeth Klarer case. The owner of a hotel in Natal, South Africa suddenly finds an unusual man standing in the reception area: "... tall, blond, very good-looking guy, rather strange, but with good features and high cheekbones." He asks for Elizabeth Klarer but is told no one with that name has been booked at the hotel. He then disappears in a strange way. About a week later Elizabeth Klarer did arrive and booked into the hotel. The owners mention the man and Elizabeth shows a photo of a bust of her space man Akon. He is immediately recognized as the strange visitor. Cynthia Hind, who was quite sceptical of Klarer and did a lot of investigations, still had this conclusion: "All these factors need examination and it is time we stopped casting aside cases like Elizabeth Klarer and Edwin which, although sounding like hoaxes, are not obviously so."


In her last letter to Edith Nicolaisen (Nov. 27, 1976), Elizabeth Klarer wrote regarding Beyond the Light Barrier: ”This book is a must for you and I hope you will be able to publish it at Parthenon.” But Edith never replied and ended twenty years of friendship and correspondence with silence. She published a second edition of Klarer´s first booklet I rymdskepp over Drakensberg, but never mentioned the second book. Instead of trying to understand what had happended to Elizabeth and openly expressing her disappointment and doubts, Edith simply ended the contact.

This attitude epitomize the dilemma of the New Age contactee-oriented UFO movement: researchers or missionaries? To Edith Nicolaisen the spiritual message of the space people was of the highest priority. Research was interesting if it could support the spiritual message. Edith was to learn the hard way that research and spiritual messages not always worked together. This was probably one of the reasons why she, beginning in the 1960s, became more and more oriented towards mysticism and the doomsday prophecies of Richard Graves and Yul Verner. She could have avoided these pitfalls and developed a more balanced view if she instead of relying on Rudolf Steiner and Max Heindel had followed in the footsteps of the core Esoteric Tradition of Helena Blavatsky, Alice Bailey and Swedish esotericist Henry T. Laurency. Inspite of her intellectual training and academic credentials she never appears to have found the works of Laurency. Edith Nicolaisen was and remained all her life the New Age missionary.
Posted by Hakan Blomqvist at Saturday, March 16, 2019

ref: Hakan Blomqvist´s blog: The Edith Nicolaisen - Elizabeth Klarer correspondence - https://ufoarchives.blogspot.com/2019/03/the-edith-nicolaisen-elizabeth-klarer.html


(2020-06-12)
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