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田川 建三 : イエスが抱えていた人間的ゆがみ、屈折、愚かさ。 私:イエスの最後の言葉はこうあるべきだった。

はじめに


・田川が「史的イエス論争」を

 「史的イエス論争」とは、イエスから宗教的熱狂を消し去る詭弁の競い合いだ。

 と酷評しているでの記録しておく。

・そのおまけとしてw、タイトルの件に言及。

引用




20190713_tagawa_pp286.jpg



出典


20190611_tagawa_book.jpg

田川 建三、『イエスという男 第二版 増補改訂』、作品社、2004-06-10、286頁

コメント1


・この「史的イエス論争」酷評はまぁ、いつもの田川節だが、上記の引用部分で私が注目したのは赤線箇所ではなく、青線箇所。

・田川が青線箇所でサラリと言及しているのは、イエスが必然的に抱えていた筈(*1)の

  ・人間的なゆがみ
  ・さまざまな屈折
  ・人間的な弱みや愚かさ

 という人格的欠陥だが、田川はその具体的な内容について明確には述べていないようだ(*2)。

・田川の考える、イエスの抱える「人間的なゆがみ」や「人間的な弱みや愚かさ」の具体的な内容を知りたいところだ。

・パウロが抱えていた人格的欠陥については、田川は露骨なまでに指摘していた(過去記事で幾つも取り上げた)が、イエスの人格的欠陥についてはさすがの田川でも露骨には書けない(or 書きたくない)らしい。

脚注


・(*1) 田川は「神は存在しない」と主張している(過去記事)。それゆえ、イエスを神だとは見なしていない。それは田川の『イエスという男』という本のタイトルからも明らか。イエスが神でないなら、「神の子であれば、それを超越しているはずである」(緑線箇所)は成立しない。ゆえにイエスは人格的欠陥を持つ筈…というロジック。

・(*2) さまざまな屈折…で思い当たるのは下の過去記事で取り上げた件だが、これは田川(や吉本隆明)の勝手な誤解だと思うので、本来は除外すべきだろう。

田川建三の「右の頬を殴られたら左の頬を向けよ…というイエスの教えは、憤りの呻きだ」説は間違っている。(途中:その2) (2019-07-01)

コメント2


・私はイエスの人格面での期待、つまりイエスの人格がこうであって欲しかったとか、こういう面は嫌だ…という希望なんてどうでもよい。

・私が、イエスについて本当に残念・無念だと思うのは、マルコが伝えた最後の言葉「我が神、何ゆえ我を見捨て給いき」だ。イエスはもっとはっきりと叫ぶべきだった、「神は俺を騙しやがった! 俺は神を心底から憎みながら死んでいくんだぞぉおおお!」と。イエスは残された人類のために、そう絶叫しながら死んでゆくべきだった(*3)。

・これに比べると、イエスの生前の行動や教えは本当はどうだったのか…なんてのはまぁ、どうでもよい話だ。

・実は、田川も私ほど露骨ではないが、若干似たような雰囲気の文章を書いている。それが下。田川はここまで書いておきながら、まだ(存在しない)神に未練を抱いているし、信じてもいる。その意味で、田川はイエスの味わった絶望を表面的にしか理解しようとせず、イエスの絶望の苦味を己の信仰で薄め、なんとか飲み込んだ気になっている。


20190719-tagawa.jpg


田川 建三、『イエスという男 第二版 増補改訂』、作品社、2004-06-10、405頁




脚注2


・(*3) 私の知る範囲では、他にこのような意見を明確に公表した人物はただ一人しかいない。

(2019-07-24)
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