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田川 建三 : イエスの当時、姦淫は道徳の問題ではなく、私有財産侵害の問題だった。

はじめに


・罪のないものだけが石を投げよ…というイエスの逸話については下の過去記事で取り上げた。

Bart D. Ehrman : もっとも有名なイエスの逸話(罪のないものだけが石を投げよ)は後世の作り話。 (+追加) (2019-03-27)

・この逸話に関連して田川がタイトルの主張をしている。

引用



20190713_tagawa_pp329.jpg


出典



20190611_tagawa_book.jpg

田川 建三、『イエスという男 第二版 増補改訂』、作品社、2004-06-10、329頁



コメント


・田川のタイトルの主張は誇張しすぎだろう。旧約聖書の教えが深く社会を律していた古代イスラエルの社会で、姦淫が道徳の問題ではなかった、と言われてもすんなりとは納得できない。私有財産の侵害の意識の方が性道徳の意識より優先していた…という主張ならば、まぁそうかもね、とは思うが。

・田川の主張を真に受けると、なぜ「姦淫」が「石打ち刑」を受け、他の普通の私有財産の侵害では「石打ち刑」を受けないのか、それが全く説明できない。姦淫が道徳の問題ではなく、私有財産の侵害の問題ならば、石打ち刑ではなく、女の価値に相当する金額(+懲罰金)で弁済すれば済む筈。

・さらに、田川は姦淫を「性道徳の逸脱」の面と「私有財産の侵害」の面に分類し、互いに異質な範疇だと見なしているようだが、それにも疑問がある。「性道徳の逸脱」がモラルに反するとされる理由は、妻(or 夫)への独占的性交渉権の侵害だからだろうし、その独占的性交渉権は結局のところ一種の私有財産と見なしうる。

・話題はすこし逸れるが…。人間社会の一員としての性規範が、いわゆる性道徳だが、生物としての性規範は子孫をできるだけ多く残すこと。このふたつの規範(=モラル、ルール)に縛られ、そのふたつが相克する狭間で人間はすったもんだを繰り広げている。

・生物としての性規範は「子孫をできるだけ多く残すこと」だが、人間はこれを「「自己の」子孫をきるだけ多く残すこと」だと錯覚している。全ての人間の遺伝子は決して「ユニーク」ではない。鉄道線路の砂利がどれも「ユニーク」ではなく、代わりは無数にあるという意味で、自分の遺伝子はユニークではない。その意味で自分の代で子孫が途絶えても生物として何の問題もない。その程度の冗長性は最初から組み込まれている。選挙の投票と同じで、自分の一票(遺伝子)が政局(子孫の流れの方向)を左右することはない。

・さらに我が子でさえ、既にその遺伝子の半分は自分とは異なる。「自己の」子孫…という概念は幻想でしかない。

・仮に我が子の遺伝子が 100% 同じでも「自分」の子孫ではない。一卵性双生児は互いに別人であり、その意味で「自分」ではない。ゆえに遺伝子が同じ=自分のコピー…は錯覚。

・神経細胞を含め肉体全体を素粒子レベルでコピーし、 100% 同じだったとしても既に、自分ではない。なぜなら、コピーの身体とオリジナルの身体を同時に自分のものと意識しえないから、よく似た他人でしかない。そっくりさんがどれほど増えようが、私自身は増減ゼロ。

…話が、かかなり脱線したようだw

(2019-07-15)
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