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田川 建三 : パウロの限界と、それを乗り越えようとした『ヘブライ書』 (途中:その1)

はじめに


・12使徒は言うに及ばず、パウロもユダヤ教の神殿祭儀をまるごと受け入れていた。それに対して『ヘブライ書』はユダヤ教の神殿祭儀を克服しようとした…と。

一部引用



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出典


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田川建三、『新約聖書 訳と註 第六巻 公同書簡/ヘブライ書』、作品社、2015-03-20、53頁、820、821頁

コメント


・つまり、田川の見るところ、パウロはキリスト教が捨て去るべきユダヤ教の残滓を無批判のまま抱え込んでいたと。

・だが、同じことは一段ずらした形で、田川にも言える。「存在しない神に祈る」と田川が説教した時点(*1)で、田川は心情的に神を希求しているだけではなく、「偶像ではない神」(=言語によって表象されない神)の存在を(意識下で?)信じている。

・田川の「神は存在しない」という発言は、正確には「人間が概念で作り上げた偶像としての神は存在しない」という意味であり、「言語によって表象されない神」が存在する余地を未練たっぷりに残している。それゆえ、「言語によって表象されない神」に祈ることが田川には可能となる。

・だが、「言語によって表象されない神」が実在するのであれば、それは言語以外の方法で(幻想ではなく)リアルに感知できなくてはならない。そうでなければ実在するという事の意味に反し、田川がいつも批判する「パウロが見たイエスの幻覚/妄想」と同じことになる。だが、田川は神秘家ではないゆえに、リアルに神を感知していない筈。

・仮に百歩譲って、田川も神秘家だったとしよう。つまり「言語に表象されない神」を田川がリアルに感知していたとしよう。この時、その「言語に表象されない神」は神たりえない(=神の資格を持ちえない)ことが今度は重大な問題となる。







脚注


・(*1) 下の過去記事を参照。

田川建三の「存在しない神」に対する恨みと未練 (2018-08-26)

田川建三:「真のクリスチャンは神を信じない」。なぜなら神は偶像であり、実在しないゆえに。 (途中:その1) (2018-08-10)

(2019-06-03)
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