FC2ブログ

田川 建三は初期仏教思想をひどく誤解している。 (途中:その2)

Update


・(2019-05-25)追加。

はじめに


・田川 建三は優れた新約聖書学者だから、ユダヤ教やキリスト教についてはとても詳しい。

・ところが、その田川が初期(=古代)仏教思想についてはごく浅い知識しか持っていないことを露呈させた発言をしているので記録しておく。

一部引用


pp620
20190523_tagawa6_pp620.jpg

出典


20190424_tagawa_book6.jpg

田川建三、『新約聖書 訳と註 第六巻 公同書簡/ヘブライ書』、作品社、2015-03-20、620頁

コメント


・田川は、

古代仏教思想にしたところで、「生」を「苦」と同一視したのは同じ古代人の労苦が根底にあるからであって、だからそこから解放される「寂」を求めたのである。

 と述べているがこれは完全に間違っている。

・そもそも、「一切皆苦」を説いた釈尊は王族の出身であるから、田川の言うような「古代人の労苦」を味わっていない。釈尊自身が自身の出家前の優雅な生活や境遇を述べており、それが経典に詳しく記録されている。

・なので「労苦からの解放」は釈尊の出家の理由にはならないし、修行の目的にもなりえない。第一、労苦からの解放が目的なら、労苦以上の苦しみである苦行に 6年も費やす筈はない。最初期の仏教教団には釈尊の親族や王族、良家の子息、そして世間の崇拝を集める修行者たちが大勢含まれていた。当然、彼らも「古代人の労苦」とは無縁のエリートたちだった。

・さらに、田川は仏教でいう「一切皆苦」の苦の意味を誤解している。仏教が、田川の言葉で「生」、つまり「一切」を「苦」と同一視したのは「古代人の労苦が根底にあるから」ではない。釈尊が生きている間に到達した涅槃の境地から見ると、その境地以外の(愉悦や快楽、休息、寂などを含めた)「一切」は(無常であるがゆえに)苦であると実感した…それゆえに釈尊は「一切皆苦」と説いただけの事。

・さらに田川は涅槃寂静の「寂」も誤解している筈。






履歴


(2019-05-23) 作成
(2019-05-25) 追加
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

横着者 (ご連絡はコメント欄にて)

Author:横着者 (ご連絡はコメント欄にて)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR